大きな存在
令和元年7月某日
雨が降っている。雨は、僕を憂鬱な気分にさせる。何かの本で、「ものは考えよう」というありきたりな言説とともに、雨を「世界を浄化する美しい現象」と捉えてみてはどうかという小学2年生でも思いつくような単純な話があった。まあ、でもそれはそうだ。種々雑多な物事をポジティブに捉えられる、捉える余裕のある人はそうでない人に比べて精神衛生が清潔に保たれている傾向にあるだろう。
しかし、今の僕にはそんな余裕などなかった。いわゆる、「鬱」の“ようなもの”が常に心の根底にあり、虚無感に襲われない日はない。事あるごとに劣等感を感じ、人を羨望する。
自殺願望や蒸発願望のあった、一番酷い時期は過ぎた。しかし、一度底を経験してしまったらそのよく分からない、薄っぺらくてくだらない“病み”という名の強固な檻を自分から取り除くのには相当の時間を要する。もしかしたら、一生続くものなのかもしれない。
一体、この檻とはなんなのか。僕は、割と暇さえあれば自分の心理状況について考えている。自分の心とかいうよく分からないものを括弧に入れ、相対化する。無意識レベルでそういうことをやる。
多分、檻なんか無いんだと思う。檻はそれ自体が何にも規定されずに独立して存在してるのではなくて、常に僕の意思によって出てきたり伏せたりする。檻の本質は、僕の意思だった。多分そんな感じなんじゃないかと思う。
至極単純な話に過ぎなかった。何かができない理由付けのために、僕は檻という便利なものを創造してしまった。一度構築された檻は、それ自身によっても、第三者によっても、もちろん取り外すことはできなかった。それが檻の本質だった。
檻のパターン化。僕は檻のスペシャリストになってしまった。思考回路のかなり重要な位置に、檻というアイテムが常備されるようになってしまった。檻という観念を、自分から除くことはかなり、難しくなってしまった。
自分の心理状況について考えてみることと、檻を外すことは、全く別の話だった。檻は、寒いから上着を着るとか、そのレベルだった。そのレベルにまで、侵食していた。檻を無くすということは、「寒いから重ね着をする」を「寒いから服を脱ぐ」という意思決定に変更するレベルで難しいことだった。
残念ながら、僕はそのような厳しい状況にいた。今口にした「厳しい状況」というのも、檻に過ぎないのだが。この問題は無限性をも孕んでいた。
ここから脱する方法はただ一つ、非常に安易ではあるが、何か僕の存在を心理面を含めて丸ごと正当化してしまう、大きな存在が必要だと感じた。
その存在とは、言うまでもなく恋人だった。僕は「彼女」ができたことがないので分からないが、「そこに愛があったから」世界が生まれたように、愛の普遍性は素晴らしく、人類全体、僕という存在に限ってもその存在の源には愛があるはずだ。
愛が存在の源なら、愛は、この僕の不安定な精神と肉体を丸ごとつつんで、僕という存在を担保し、僕という存在に正当性を与えてくれるはずだ。
愛とは、すなわち愛されることなのだろう。偶然性の愛は今まであったのかもしれないけれど、今後の愛はそうではない。偶然の愛、つまり自分の出生に関わる愛と、今後得られる可能性のある愛は、全く違う。余りにも違う。これからの愛は、選ばれる愛なのだから。その事実に、希望があり、また幻想がある。
でも、結局は、楽しく性器を擦り合わせてる奴らには敵わないようだ。