就活の話を聞いた

昨日、とある忘年会の帰りに就活中の慶大3年の方と話す機会があった。

その際、その方が僕に就活のあれやこれやを教えて下さったのでちょっと備忘録としてまとめたい。

 

その方は主に、就活ではトップ層とされる外銀や外コンについての話をしてくれた。

僕も、別に今現在そういう所謂超エリートビジネスマン的な道に進むのが夢とかではないけれど、やはりゴールドマンサックスやらモルガンスタンレーやらマッキンゼーなどの名前を聞くだけで単純に“どちゃくそかっこいい”なと思う。

おお〜俺世界経済の片鱗を担ってる〜って感じしそうだし、金の匂いもプンプンするし、モテそうだし。 (なんと薄っぺらい感想なのだろう)

激務でもやり甲斐感じるのかなあ...

もっと調べないと...どういうことやってるか大体しか知らない。

まあそんな話は置いといて、私が昨日聞いた話を早くまとめなければ。

 

えっと、私の固定観念を一番ひっくり返したのは「上記の企業とかは努力で入れない領域ではない」と彼が言っていたこと。

「そんなGSなんて、東大とかの頭の作りがちょっと常人とは違う奴しかいけないんだろ。」みたいなイメージを持ってたけど(まあもちろん実際そういう人ばかりだと思うが)、彼はあくまでも「「就職試験」」なるものにフォーカスして「対策」すれば全然そういう奴らに太刀打ちできない訳ではないと言っていた。

じゃあその対策ってのは何なのかを彼は教えてくれた。面倒臭いから箇条書きにするけど。

└そういう外銀外コンとかを受ける人達のコミュニティに入って勉強なり情報収集なりをする

└英語できるようにする

└SPIという適性検査の勉強をする

└他にも色んな対策・勉強

→これらをめっちゃ早い段階でやり始める

他にもあったと思うけど忘れたし大体こんな感じだろう。

まああと求められる能力といったら論理的思考力、コミュ力、説明力、知識、リーダーシップ力...って感じか。もちろん企業や部門によって違うと思うけど。あと体力。

選考の流れは、彼が受けた所は書類選考→試験→面接→グループディスカッション→面接って言ってた気がするから(曖昧)進むにつれてよりその人のポテンシャルに近いものを見られていくのかなあ...と。

とにかく、別に天才みたいな奴等しかいない世界ではないってこと。

もちろん皆超優秀なのは間違いないけど、先天的にトレードの才能があってマーケット部門で大活躍する人もいれば、努力して内定もらって激務にも耐えてストイックな生活して出世していく人もいる(例が適当)。

「俺なんかには縁のない神々しい世界だ〜」と勝手に決めつけるのはよろしくない。

 

しかも別に外資系だから凄いって決めつけは良くない。日経でも優秀な人達は沢山いるし、自分の行きたい企業、自分に合う企業に行けばいい。

なに俺偉そうなこと言ってんだ。

 

俺は一体何やりたいんだろうなあ...

 

てか一人称、文体の乱れが酷い...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

継続するということ

は〜!ブログって継続しないと意味ないよね。

 

僕は「継続すること」が苦手すぎる。今までハマりまくって時間を忘れるほど没入したものも色々あった。

でも、数ヶ月したらなんか飽きて全く関心を持たなくなってしまう。

 

僕のいう「継続」のイメージは、「私、〇〇やってます。」と堂々と人に話すことができる程度。

 

じゃあ僕が誰かに自己紹介しようと思う時、「〇〇やってます。」の「〇〇」の部分は何だろうというと、残念ながら出てこない。

 

僕はユニークさが欲しいし、何か自分で学んで、突き詰めて、人に語れる程度に知っているもの、もしくは得意なものが欲しい。

別にそれはブログでもいいし、哲学でもいいし、日本史でもいいし、仮想通貨でもいいし、マイナースポーツでもいい。

とにかくユニークさが欲しい。

何で僕が自分自身にユニークさを求めているのかといえば、おそらくこれまでの人生経験で形成された価値観だと思うが、それを言語化するのは面倒臭いので割愛する。またいつか書くかも。

 

ユニークさが欲しければ、何かを「継続する」しか方法はない。

いきなりユニークな人間になることなんてできやしないんだ。

 

だから、とりあえずブログを1日1記事は書いていくことにする。文量は問わないから。

 

 

初投稿

私はしがない人間である。

「しがない」という形容詞を辞書で引っ張ってくるとこうだ。

 

1. 取るに足りない。つまらない。「―・い職業」

2. 貧しい。みすぼらしい。「―・い暮らし」    (goo辞書)

 

この形容詞は、まさに私の現在の状況を正確かつ端的に表している。

私はしがない人間を抜け出したい。抜け出さなければならない。

抜け出すためには、“面白い”人間にならなければならない。

ここでの“面白い”とは、こう。

  1. 会話をしていて面白い。知識と論理的思考力から繰り出される発言の節々が面白い。
  2. やっていることが面白い。興味深い。楽しそう。

 この時点で他人からの評価を気にし過ぎていることが明々白々だ。

そして、書きながら厨二臭いなあとメタ認知もしている。

 

では、他人からの評価よりも自分のなりたい自分になろうという言説の方が正しいのか?

厨二臭いのはいけないのか?

 

くだらねえ。この世に良いも悪いも無いんだよ(論理崩壊)。

 

とにかく、僕は面白い人生を歩みたい。

面白い人生を歩むには、自分が面白い人にならなければならない。

何故ならば、面白い人の所には面白い人が集まってくるというのもそうだし、何よりもまず自分が面白いものを人に提供できなければ、他人から、世界から何かを与えてもらう資格はない。

 

物理的にも、精神的にも、世界は自分を中心に回っている(これは、いわゆる自己中という意味ではなく、観測者という意味での話である)。

ゆえに、自分が変わらなければ全然世界は面白くならないのだ。

 

人生は、つまらないより面白い方が良いに決まっている。