彼女
彼女がほしい
「欲しい」じゃなくて、「ほしい」。
めちゃくちゃほしい。
彼女がほしいって思うのは、他人の欲望を欲望しているだけなんだろうか。
いや、違う。本能的なものだ(本能ってよくわからないけど)。「ただ単に」欲していることだ。無条件に欲している体験だ。
僕には彼女ができたことがない訳だ。つまり、「彼女がいる(=お互いに好き)という状態」を経験したことがない。もちろん人を心から好きになったことは何回かある。yとか。だから「恋する」っていうのがどういうことかは分かる。「恋している」っていう気持ちは経験したことがある。「振られた時の感情」というのも知っている。
でも、「お互いに好き」っていう感情は経験したことがない。
だから、経験してみたいんだ。
これは「『お互いに好き』っていう感情を経験してみたい」っていう好奇心だ。
「その時どんな感情になるんだろう?」って思うんだ。
想像していたよりもはるかに素晴らしいものなのか、それとも想像していたのとは別の種類・次元の素晴らしさなのか。それとも期待はずれになるのか。言語化できないようなものなのか。「こんな感じかー」となるのか。「もうこれ体験できたから死んでもいいわ」と思えてしまうような体験なのか。...
わからん、でも、「そういう余地」のある体験を僕はまだこれからの人生で「し得る」ということ自体が素晴らしいことなのかもしれない。
でも早く来ないかなあ
学びたいこと(?)
最近、なんだか前向きになれてきた。
「前向き」な状態、とてもいい。何がいいって、「安定」してるんだもん。
「後ろ向き」に「安定」すること、そのことを「不安定」と呼ぶのかもしれない。
さて、自分がこれから勉強していきたいことってなんなのかなーと思ってつらつらと書いてみることにした。
まず、哲学に関して。
哲学は、むずい。よくわからん。カントが何をしたーだの、ハイデガーの現存在が何だのー、弁証法がー、言語がー、しらん、しらん。
ぼくは頭が悪いし読解力も理解力もないので哲学の難解な本を読むのは退屈だし最後まで読みきれない。
でも、考えることは好きだ。どうでもいい、実生活では使えない、くだらなくて、答えのない問題をよく考えたりしてる気がする。
そういえば永井均さんが何かの本で書いていたことが印象に残っていて、確か「哲学をやる人は、多くの人がそれが普通、当然だと思うようなことを無批判に受け入れなかったり、疑問を感じたり、その構造について深掘りしたいと思っている人であり、多くの人が住んでいる言わば水面の上から海の中に飛び込んで水中を潜っている人」みたいな話だったんだけど、なるほどなーと思った。
ぼくが哲学とかいうよく分からないものに興味を持ったきっかけは現実逃避したかったからであり、永井均さんの本を読んでみたのもそれの延長線上にある。
でも、最近は「哲学的なことを考えるための方法」って、いろんなことに応用できるのではと思い始めてきた。世界の解釈広げてー。
だから、カントとかハイデガーとかは知らないけど、それは哲学用語図鑑のイラストで超表面的に理解した気になっておいて(もちろんやる気が出れば専門書を読んで)、んで、永井均さんなどの自分の興味ある問題に関しては、頑張って読んだり考えたりしてみたいな、と。
あと気になること、知りたいこと。
・人々が日々使っている言葉の「意味」はどのようにして成り立っているのか
→意味論ってやつ(?)
・ものの「価値」はどのようにして決まったり、人々の間でその位置が定まるのか
→美学(?)、倫理学(?)
・哲学(心の哲学)関係
└私と他人の違いとは(なぜ私は私なのか)
└意識とか自我って何
└クオリアとか
└意識のハードプロブレム
└可能世界論
└なぜ何もないのではなく、何かがあるのか
└科学哲学
└実存主義
・「この世界は言葉によって成り立っている」とはどういうことか
・思考実験系
・原始や中世の人々はどのように世界を捉えていたか
→文化人類学(?)神学(?)
・美術史、美学
・音楽史
・心理学
・「よい」と「わるい」はどのようにして定まるのか、そうした価値観、規範が大衆に根付くのか
→倫理学(?)
・愛とは何か
→???
・ロマンティシズム(ロマン主義)について
・文学、美術、音楽が生み出すもう一つの世界について
・自然科学関係
└論理学(?)
└宇宙とか
└量子力学の概念的な面白さ
└数学のトリビア
└死ぬまでに「ゲーデル・エッシャー・バッハ − あるいは不思議の環」ってやつが読めるようになりたい。
ふへー
〈ぼく〉を美化するということ
あの、正直言ってモテたい。
ここでの「モテたい」は、なんだろう、「廊下を通るだけで周りにいる女子生徒からキャッ!///と囁かれるようなサッカー部のモテモテのイケメン」のような意味合いではない。
「ぼくがAさんに好意を持っていることが、向こうが別にぼくに好意を抱いていなくても、気持ち悪いとは思われず、多少は嬉しいと思ってもらえる」くらいの意味合いだ。
だから、「モテたい」というよりも、「相手からマイナス評価をくらわない」とでも言った方が近いのかもしれない。
そもそもぼくは、モテの主な要素である
・イケメンな顔
・高身長
・優しさ(表面的な優しさと、“ほんとうの”優しさについて考える必要があるが)
・話の面白さ etc...
のどれも現時点では持ち合わせていない。
だから、美化していく必要がある。
自然状態の無秩序な顔に少しばかりの秩序を、そしてその秩序を保つための方法を学ぶこと。イケメンにはなれなくても「気持ち悪い」とは思われない程度の清潔さを手に入れること。身長を◯ること(身長なんて、いわばイメージであり、周りの人間の解釈によってその人の身長が成り立っているのかもしれない)。「優しさ」とかいうよくわからない一般化された概念に関して女の子に迎合すること。話を興味深そうなものにするために脚色をすること...
迎合、脚色、美化。モテるための作業というのは、自分をねじ曲げることなのかな?
それはモテるため、人生初の彼女を得て幸せになりたいという夢を達成するための手段として、自分本来の姿から逸脱していても、割り切らないといけないのかな?
でも、それもなんか違う気がするんだ。
迎合とかそういう言葉を使っちゃうからなんかマイナスな意味になってしまうけど、そうじゃない気がするんだ。
わからん、わからん。
要は最終目標はなんだろうってことだ。
ぼくは「どういう状態」を目指しているんだろう。
「ぼくに彼女がいる状態そのもの、ぼくを規定してくれる異性がいる状態」
「ぼくが愛している彼女がいて、その人もなぜかぼくのことを愛している状態」
「ぼくの心と彼女の心が〈いま、1つになっている〉と確信している状態」
「ぼくと彼女が肉体的に一体化して、精神的にも肉体的にも幸せを感じている状態」
「〈世界にはいま、ぼくと彼女しかいない〉みたいな幻想世界に没入している状態」
「ぼくと彼女が手を繋いで、東京の街を物語の主人公のように歩いている状態」
あー、全部いいわ。
よすぎる。
〈妄想〉は楽しい。
とりあえず、多分、ぼくは恋人との内的なつながりを求めているんだと思う。
セックスして肉体的に1つになるより、精神的に、心的に、1つになってみたいって気がする。
これは心の内奥から湧き出てくるような、決して自己欺瞞なんかではない感情であり欲求だ。真に素直なものだ。
だから、ぼくは心の内奥にある何かは絶対美化しない。捻じ曲げない。でも、ぼくの心の内奥と、相手の心の内奥が1つになるような瞬間、その最終目標を達成するためには、その本質にヒビが入るようなこと以外は、する。うん。
せっかくその人と、内的に1つになれる余地があったのに、「ぼくの鼻毛が出ていた」ことで切られたらあまりにも勿体無い気がするから。
人と人が分かり合うことってなんなんだろう。
物語
「物語の世界を生きる」
僕の人生のテーマになりつつあるかもしれない。
あまりにも短くて長い〈ぼく〉の人生の中で、如何に、ロマンティシズムを自らのうちに体現することができるか。
如何に、究極のロマンティシズム─それは、同時に強大なコンテンツ性を伴うだろう─に到達するか。
焦らずゆっくりと、かつ捨象を繰り返しながら、〈ぼく〉はその目標に向かっていく。
現時点で、もっともイメージがしやすく、かつ象徴的・神秘的で、大きなロマンティシズムを出現させることが可能であろうと思われるイベントは、やはり恋愛だろう。
振られることは経験した。そして、ぼくは、一度も「彼女/恋人」ができたことがないのだから、「彼女/恋人」ができたときの感情/感動はやはり、言語化できないほど、特別なもの(大きなロマンティシズム)になるのではないか。
なぜなら、創作に愛は不可欠なものだからだ。
ロマン派以降の創作は、その独断的本質からいって、意味的である必要がある。
愛は、もっとも簡単に、かつ強靭に、世界に「意味」をもたらすツールなのかもしれない。
風の音
風の音がする、とても強い音だ。
強くて、恐怖を感じさせる音。破壊的な音。怒りを感じさせるような音。
いや、本当に怒っているのかもしれない。
あまりにも「何か」を感じさせるその音に呼び出され、僕は自分の部屋から出、玄関扉を開け、外に出てみた。
立っていることはできる。雨水が身体全体を叩きつけ、風に揺さぶられるが、「外にいるだけ」なら物理的になんの問題もない。しかし、「精神的に」何かここにいてはいけないような気がして、僕は家の中に戻った。
「こっちへ来るな」
まるでテレパシーのように、僕は自然からのメッセージを受け取ったのだ。その瞬間、心的に僕たちは同一化していた。台風に、「心」があるように僕は、感じていた。
意味性
君と僕の間主観的な世界は “意味性” に満ちている。
人々が「現実」と呼んでいる形骸化した万人の概念的な世界に比べて、あまりにも。
大きな存在
令和元年7月某日
雨が降っている。雨は、僕を憂鬱な気分にさせる。何かの本で、「ものは考えよう」というありきたりな言説とともに、雨を「世界を浄化する美しい現象」と捉えてみてはどうかという小学2年生でも思いつくような単純な話があった。まあ、でもそれはそうだ。種々雑多な物事をポジティブに捉えられる、捉える余裕のある人はそうでない人に比べて精神衛生が清潔に保たれている傾向にあるだろう。
しかし、今の僕にはそんな余裕などなかった。いわゆる、「鬱」の“ようなもの”が常に心の根底にあり、虚無感に襲われない日はない。事あるごとに劣等感を感じ、人を羨望する。
自殺願望や蒸発願望のあった、一番酷い時期は過ぎた。しかし、一度底を経験してしまったらそのよく分からない、薄っぺらくてくだらない“病み”という名の強固な檻を自分から取り除くのには相当の時間を要する。もしかしたら、一生続くものなのかもしれない。
一体、この檻とはなんなのか。僕は、割と暇さえあれば自分の心理状況について考えている。自分の心とかいうよく分からないものを括弧に入れ、相対化する。無意識レベルでそういうことをやる。
多分、檻なんか無いんだと思う。檻はそれ自体が何にも規定されずに独立して存在してるのではなくて、常に僕の意思によって出てきたり伏せたりする。檻の本質は、僕の意思だった。多分そんな感じなんじゃないかと思う。
至極単純な話に過ぎなかった。何かができない理由付けのために、僕は檻という便利なものを創造してしまった。一度構築された檻は、それ自身によっても、第三者によっても、もちろん取り外すことはできなかった。それが檻の本質だった。
檻のパターン化。僕は檻のスペシャリストになってしまった。思考回路のかなり重要な位置に、檻というアイテムが常備されるようになってしまった。檻という観念を、自分から除くことはかなり、難しくなってしまった。
自分の心理状況について考えてみることと、檻を外すことは、全く別の話だった。檻は、寒いから上着を着るとか、そのレベルだった。そのレベルにまで、侵食していた。檻を無くすということは、「寒いから重ね着をする」を「寒いから服を脱ぐ」という意思決定に変更するレベルで難しいことだった。
残念ながら、僕はそのような厳しい状況にいた。今口にした「厳しい状況」というのも、檻に過ぎないのだが。この問題は無限性をも孕んでいた。
ここから脱する方法はただ一つ、非常に安易ではあるが、何か僕の存在を心理面を含めて丸ごと正当化してしまう、大きな存在が必要だと感じた。
その存在とは、言うまでもなく恋人だった。僕は「彼女」ができたことがないので分からないが、「そこに愛があったから」世界が生まれたように、愛の普遍性は素晴らしく、人類全体、僕という存在に限ってもその存在の源には愛があるはずだ。
愛が存在の源なら、愛は、この僕の不安定な精神と肉体を丸ごとつつんで、僕という存在を担保し、僕という存在に正当性を与えてくれるはずだ。
愛とは、すなわち愛されることなのだろう。偶然性の愛は今まであったのかもしれないけれど、今後の愛はそうではない。偶然の愛、つまり自分の出生に関わる愛と、今後得られる可能性のある愛は、全く違う。余りにも違う。これからの愛は、選ばれる愛なのだから。その事実に、希望があり、また幻想がある。
でも、結局は、楽しく性器を擦り合わせてる奴らには敵わないようだ。